新し屋のこと
新し屋のかっぱの作者 本庄基晃先生
墨彩画家。北海道出身。 プライベートブランドのラベルを筆頭に、あたらし屋酒店のシンボル・河童の墨彩画なども多数手掛けて頂いた。厳しさと温かさが共存した慈悲溢れる作品に魅せられるファンは多く、その活躍の場は日本国内にとどまらない。 長野県戸隠村の豊かな自然に囲まれ、精力的に制作活動に取り組んでいたが、病に倒れ、2016年春、永眠されました。 経歴 昭和33年:眼球結核により眼底萎縮症および角膜炎を併発し失明。絵画を断念。昭和36年: 奇跡的に片眼だけが回復し、再び絵筆を握る。昭和45年: 長野市に居を定め、石仏を油彩で千点画く。昭和46年: この頃よりペンと墨による野の仏を描き始める。仏教美術の研究を始める。昭和60年: 居を戸隠村に移す。昭和62年: 黄檗宗管長・村瀬玄妙猊下より「眠月」の号を拝受する。平成元年: ロサンゼルス美術館にて個展を開催。平成 6年: 全米12ヶ所に及ぶ作品展をニューヨークを皮切りに開催。平成15年: 幼少の頃より食指が向いていたコロボックルの油彩制作に打ち込む。平成21年: 長野市壇田に移住 本庄基晃・眠月墨彩画ギャラリー開設(参考文献:本庄基晃墨彩画集) 新し屋酒店と 本庄先生とのひょんな出会い 本庄先生との出会いはひょんなことだった。 とある、新潟市内のデパート。時間つぶしにふと立ち寄った上階のギャラリーでたまたま1枚の河童の絵に出くわした。「1万円にまけときます、いかがですか。」とギャラリーの主に言われ、その小さな河童の絵を何の気なしに買った。 家に持ち帰ってその絵を眺めていたら「墨彩画家の本庄先生です」と、テレビがなんと自分の手元にある絵を描いた作家を紹介しているではないか。その紹介映像の中に出てきた小さな仏様、「そういえばギャラリーで河童の横にあった」と思い返したらどうにも脳裏からその仏様の姿が離れなくなった。 ・・・それからというもの、本庄先生の住む信州は戸隠村に毎年通い続けている。唯一見えている右目も最近はかすみがちで「いつ描けなくなるかわからない」という本庄先生。そのような畏怖の念に襲われながらも製作への意欲は衰えず、現在は、元来好んで描いていた油彩にも積極的に取り組んでいる。世間を静かに、そして厳しく見据えるような油彩のコロボックルもまた強烈な存在感だ。もちろんPBラベルで見るような墨彩画も、まるで目の不自由さが嘘のように、その大きな手からすらすらと流れるように描き出される。 「塚本さんとわたしの仲じゃないですか。」そんなふうに気さくに話しかけてくれる本庄先生。肩をたたき合ってしゃべっていると、まるで何十年来の古い友人としゃべっているような気持ちさえしてくる。 「夢はまだまだたくさんあるんだよ」・・・互いの夢を披露し合って、また話に華が咲く。そんな愉しい話の中で戸隠村のとある一日は過ぎていくのだ。 一枚の河童の絵との出会い。 ・・・今こうして、あたらし屋酒店と新潟地酒は本庄先生の墨彩画に囲まれて毎日を暮らしている。“出会い”とはなんとも不思議で、そして素晴らしい。 2004年9月戸隠村・本庄基晃アトリエにて 当サイトの河童の墨画、ラベルの図案などは全てあたらし屋酒店が本庄先生の許可を頂き掲載させて頂いているものです。無断転載や複製(コピー)は堅くお断り致します。
新し屋のかっぱの作者 本庄基晃先生
墨彩画家。北海道出身。 プライベートブランドのラベルを筆頭に、あたらし屋酒店のシンボル・河童の墨彩画なども多数手掛けて頂いた。厳しさと温かさが共存した慈悲溢れる作品に魅せられるファンは多く、その活躍の場は日本国内にとどまらない。 長野県戸隠村の豊かな自然に囲まれ、精力的に制作活動に取り組んでいたが、病に倒れ、2016年春、永眠されました。 経歴 昭和33年:眼球結核により眼底萎縮症および角膜炎を併発し失明。絵画を断念。昭和36年: 奇跡的に片眼だけが回復し、再び絵筆を握る。昭和45年: 長野市に居を定め、石仏を油彩で千点画く。昭和46年: この頃よりペンと墨による野の仏を描き始める。仏教美術の研究を始める。昭和60年: 居を戸隠村に移す。昭和62年: 黄檗宗管長・村瀬玄妙猊下より「眠月」の号を拝受する。平成元年: ロサンゼルス美術館にて個展を開催。平成 6年: 全米12ヶ所に及ぶ作品展をニューヨークを皮切りに開催。平成15年: 幼少の頃より食指が向いていたコロボックルの油彩制作に打ち込む。平成21年: 長野市壇田に移住 本庄基晃・眠月墨彩画ギャラリー開設(参考文献:本庄基晃墨彩画集) 新し屋酒店と 本庄先生とのひょんな出会い 本庄先生との出会いはひょんなことだった。 とある、新潟市内のデパート。時間つぶしにふと立ち寄った上階のギャラリーでたまたま1枚の河童の絵に出くわした。「1万円にまけときます、いかがですか。」とギャラリーの主に言われ、その小さな河童の絵を何の気なしに買った。 家に持ち帰ってその絵を眺めていたら「墨彩画家の本庄先生です」と、テレビがなんと自分の手元にある絵を描いた作家を紹介しているではないか。その紹介映像の中に出てきた小さな仏様、「そういえばギャラリーで河童の横にあった」と思い返したらどうにも脳裏からその仏様の姿が離れなくなった。 ・・・それからというもの、本庄先生の住む信州は戸隠村に毎年通い続けている。唯一見えている右目も最近はかすみがちで「いつ描けなくなるかわからない」という本庄先生。そのような畏怖の念に襲われながらも製作への意欲は衰えず、現在は、元来好んで描いていた油彩にも積極的に取り組んでいる。世間を静かに、そして厳しく見据えるような油彩のコロボックルもまた強烈な存在感だ。もちろんPBラベルで見るような墨彩画も、まるで目の不自由さが嘘のように、その大きな手からすらすらと流れるように描き出される。 「塚本さんとわたしの仲じゃないですか。」そんなふうに気さくに話しかけてくれる本庄先生。肩をたたき合ってしゃべっていると、まるで何十年来の古い友人としゃべっているような気持ちさえしてくる。 「夢はまだまだたくさんあるんだよ」・・・互いの夢を披露し合って、また話に華が咲く。そんな愉しい話の中で戸隠村のとある一日は過ぎていくのだ。 一枚の河童の絵との出会い。 ・・・今こうして、あたらし屋酒店と新潟地酒は本庄先生の墨彩画に囲まれて毎日を暮らしている。“出会い”とはなんとも不思議で、そして素晴らしい。 2004年9月戸隠村・本庄基晃アトリエにて 当サイトの河童の墨画、ラベルの図案などは全てあたらし屋酒店が本庄先生の許可を頂き掲載させて頂いているものです。無断転載や複製(コピー)は堅くお断り致します。